【父ログ】タイプスリップばあちゃん
ちょっと前の父ログで、父が5歳まで過ごした山口県岩国市のネタを書いた。
それがミレイのばあちゃん、父の母の目に入ったらしい。
ばあちゃん、しばし50年前の岩国にタイムトリップ(タイムスリップって書いてるけど。笑)したそうな。
同人誌に寄稿した文章を許可を得て転載しまっす。
昭和の日本の田舎の懐かしい風景でっす。
「昭和のあの頃はよかった」
ある日次男がメールで「岩国で通った幼稚園をグーグルで見たら昔の場所にそのまま有った」と言って来たのがきっかけで、今から五十数年前にタイムスリップさせられた。
新生活のスタートは夫の赴任地岩国市の社宅からだった。
東京生まれの私には修学旅行の京都、奈良以西は全く未知の土地。まず食材を買いにそばのストアでうろうろ。油揚げが三角形で「おいなりさん」には揚げをどう切ったものか悩み、真四角な押し寿司の作り方に興味深々。毎週朝早く瀬戸内海の魚を自転車で売りに来るおばさんに、まず魚のさばき方を教えて貰い内臓をこわごわ抜いて、切り身に悪戦苦闘。東京では切り身の魚しか知らなかったし、肉の方が色々調理法が有ると思っていた私には新鮮な魚や貝(牡蠣、ミル貝など)全て驚きの連続。小鰯の頭から骨ごと背開きにしてそのまま口に入れると海の幸そのもので生臭くない。偶に夫が釣って来たチヌ(黒鯛)を慣れない出刃包丁でさばいて、さてと口にしたところ死後硬直の最中でまだ旨味が出ていない。一晩寝かせたら美味しくなった。そんなこんなで次第に岩国の暮らしにも慣れ友人も増えて子供も生まれ、生活のリズムが整ってきた。社宅の良い面しんどい面を味わいながら子供達も元気に育っていった。同年齢の子供達が何人も居て、毎朝幼稚園へ交替で送り届けその後暫くお喋り。時には子供達と車に分乗して近くの錦帯橋へ(当時は無料で渡れた)。時には錦川の河原で清流に戯れ、又時には吉香公園からロープウエイで岩国城へ登ったり。夏には鵜飼い見物、蛍狩り、帰って蛍を蚊帳の中に放ち電気を消してはしゃいだものだった。子供達を育てる環境が自然と隣り合わせで、今となると懐かしい想い出ばかりである。東京からの客人には更に天然記念物の白蛇、広島の原爆ドーム、安芸の宮島の紅葉等を案内して自分達も楽しんだものだ。デパートの無い岩国からの広島行きは天満屋、福屋のはしごが目的。
岩国市は錦帯橋のある城下町界隈、臨海工業地帯、それに飛行場のある基地周辺で成り立っている。基地は川下(かわしも)という西部劇にでてくるような地域で、アメリカの文化を肌で感じることができた。初めてピザを食べた時の感激は今でも懐かしい思い出である。市街を抜けると瀬戸内海の遠浅の穏やかな海で安心して子供達を遊ばせられた。又時には子供達を車に積んであちこちに足を伸ばした。秋吉台・秋芳洞、関門トンネルをくぐり国東半島、阿蘇、熊本などを巡り、別の夏休みは四国へ渡り、桂浜で太平洋の荒波に追いかけられて砂浜を濡れながらキャーキャー大騒ぎ。びしょ濡れのまま播磨屋橋近くの知人宅にお邪魔して名物の皿鉢料理なるものをご馳走になった。時には山陰側へ出掛け伯耆大山に登ったが途中で車がエンスト!。宍道湖辺りで子供が飽きて大声で泣き喚くし。生憎の悪天候のもと夫は翌日の出勤に間に合わせようと真夜中の山道をひたすらアクセルを踏んでいたっけ。
そんな高度成長期の七年間を過ごした社宅時代の子供達の同級生のお母さん方とは帰京後も時々集まっていたが次第に間遠になっている。岩国社宅もグーグルによるとモールとその駐車場に変貌していて時の流れを感じさせられた。
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